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翻訳とはいかに? 穴だらけの柄杓ですくう異文化

「イードアルアドハー、おめでとう!」──毎年6月上旬のこの時期、アラブ世界では街中でこの挨拶がにぎやかに取り交わされる。イードアルアドハーはアッラーに家畜を捧げる祭りである。イスラーム教の経典コーランの「アブラハムという羊飼いがアッラーの命じる通りに息子を生贄(いけにえ)として捧げようとしたところ、アッラーはその信仰の深さを知り、息子の代わりに羊を差し出させた」という話に基づく。イスラーム教の二大...

コラム:私の視点

文化 社会

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「イードアルアドハー、おめでとう!」──毎年6月上旬のこの時期、アラブ世界では街中でこの挨拶がにぎやかに取り交わされる。

イードアルアドハーはアッラーに家畜を捧げる祭りである。イスラーム教の経典コーランの「アブラハムという羊飼いがアッラーの命じる通りに息子を生贄(いけにえ)として捧げようとしたところ、アッラーはその信仰の深さを知り、息子の代わりに羊を差し出させた」という話に基づく。

イスラーム教の二大祭礼の一つ、「イードアルアドハー」の日本語訳は「犠牲祭」である。ただ、この訳語から連想されるイメージは決して良いものとは言えない。確かに字義通りでは「イード=祭り」「アルアドハー=犠牲にすること」と正しく訳してはいるが、この祭りが生み出す独特の雰囲気は伝わらないのである。そのため、犠牲祭という言葉を発した瞬間に日本人には「怖い」イメージを持たれてしまう。マイナスイメージでしかないこの訳はやめるべきだと私は考える。

私たちは翻訳という手段を使って、世界の異文化とその知識をすくい上げる。しかし、翻訳とは穴だらけの柄杓(ひしゃく)のようなもの。言葉の意味の全てを一度にすくい上げられないことも多々ある。また、訳語という形式知に変換できたとしても、原語の見えない意味の「暗」の部分がすくい上げられず残されてしまうことも少なくない。

世界の訳語は多様で、意味の捉え方もさまざまである。例えば、英語では「Feast of the Sacrifice」(犠牲祭)、スペイン語では「Fiesta del Cordero」(羊の祭り)、トルコ語やペルシャ語圏では「捧げ物祭り」などと訳されている。またイエメン、シリア、北アフリカ(モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア、エジプト)のようなアラブ・イスラム諸国の一部では、「大祭」という名で呼ばれることも多い。

私もこの「大祭」という呼び方が、言語的に怖いイメージのある「犠牲祭」に代わる新訳として良いのではと提案したい。そして、「犠牲祭」や「大祭」などのような意訳ではなく、いつかはアラビア語から直接、音訳した「イードアルアドハー」という呼び方に多くの日本人が親しみを覚えてくれるようにと願う。

もちろんイードアルアドハーの本当の意味、つまり「暗の部分」を伝えるには一言では難しいから、今日はこの祝祭について少し書いてみたい。

日本とアラブの間で「百年の大計」を作るために、言語によるボーダーレスの新時代の実現をめざすことが重要である。現在、アラブ・イスラーム世界は、非常に危機的な状況にある。そしてアラブやイスラームに対する誤解や偏見が拡大する一方で、アラブ人の日本の中東政策に対する厳しい見方が進んでいる。

日本とアラブ世界が迎えた 21世紀とは、単なる20世紀の延長ではない。過去・現在・未来を同時に生きなければならない、「複合の世紀」なのだ。これまでの日本とアラブ世界の関係に関する議論が、過去中心、または未来中心の、どちらか片方の見解によってなされたとすれば、今後は過去の中の未来、そして未来の中の過去を、同時に読み解こうと努力していかなければならないのだ。

過去の限定的な関係に学びながらも、地平線の向こうにある明るい未来を見通しながら、今日の日本とアラブ世界の間の文化的な関係の構築とその諸問題を解いていかなければならない、新しい時代なのである。その意味で翻訳活動によるパブリック・ディプロマシーのその効果的な役割に大きく期待したい。

バナー写真:イスラム教の「犠牲祭」を迎え、サウジアラビア・メッカのカーバ神殿で礼拝する人々=2024年6月16日(AFP=時事)

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