【追悼】ミスタープロ野球・長嶋茂雄さん:選手、監督として愛され続けたその生涯
プロ野球・巨人の選手、監督として活躍し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄さんが6月3日、89歳で死去した。国民的人気を誇った長嶋さんの軌跡を、気鋭のスポーツジャーナリストが振り返る。
東京タワーと「3」でつながる“同期”
さる6月3日、肺炎のため89歳で世を去った長嶋茂雄さんを追悼するため、その日、東京タワー(日本電波塔)は、いつもより3時間も早い午後9時に消灯した。
実は長嶋さんと東京タワーは、ともに「1958年デビューのいわば同期」(東京タワー公式X「ノッポン弟」)。正確に言えば、巨人に入団した長嶋さんが1軍の試合に初出場したのが4月5日、東京タワーが竣工(しゅんこう)したのが12月23日だから、長嶋さんの方が8カ月先輩である。
ちなみに東京タワーの高さは「333」メートル。長嶋さんの背番号は「3」。58年は昭和「33」年。何やら不思議な因縁を感じないわけにはいかない。
電波塔が全国に届けたスポーツ熱
東京タワーは、テレビやラジオの電波を遠くに届けることを目的に建設された。53年12月にNHKがテレビ放送を開始、日本テレビ放送網が、それに続いた。
国民が最初に熱狂したのはプロレス中継だった。54年2月19日に東京・蔵前国技館で行われた力道山・木村政彦組とベン、マイクのシャープ兄弟の「世界タッグ選手権」は1万2000人の観客で埋まった。
なお、この試合はNHKと日本テレビで同時中継され、新橋駅西口の“街頭テレビ”の前には、2万人の観衆が詰めかけた。その写真は今見ても壮観である。
ご多分に漏れず、長嶋さんも力道山のファンだった。生前、こう語っていた。
「ブラウン管の力道山に憧れました。やはり、あの空手チョップですかね。立教大学の野球部の寮にテレビがあり、仲間たちと歓声を上げながら、それこそ熱狂しながら観たものですよ」
入団直後からスター街道まっしぐら
立教大学で東京六大学野球のホームラン記録(8本)を塗り替えた長嶋さんは、58年、鳴り物入りで巨人に入団する。デビュー戦で国鉄スワローズの金田正一さんから、4打席連続三振を喫したのは、今も語り草だ。
長嶋さんが驚いたのは、184センチの長身から投じられるストレートよりも、「2階から落ちてくる」ようなカーブだった。これに手も足も出なかった。
それでもホームラン(29)と打点(92)の2部門でタイトルを獲得した。打率(3割5厘)もリーグ2位。ルーキーながら、三冠王にあと一歩のところまで迫った。
翌59年4月10日、皇太子殿下と美智子さま(現上皇后夫妻)の“ご成婚パレード”がテレビによって生中継され、これを契機にテレビが家庭に普及し始める。
そして5月26日には、五輪の64年東京大会開催が決定した。実は東京五輪、36年に40年大会の開催が決定していたのだが、日中戦争の激化と国際社会の反発により、38年に開催権を返上していた。資源や兵力を競技場やインフラ整備にとられることを警戒した軍部の圧力が背景にあったと言われている。
初の天覧試合で放った奇跡のアーチ
慶事はプロ野球界にも及ぶ。6月25日、東京・後楽園球場でのジャイアンツ対タイガース11回戦は、プロ野球史上初の天覧試合として行われた。
ゲームはシーソーのように、ジャイアンツに傾いたりタイガースに傾いたりしながら進み、ついに9回まで来た。スコアは4対4。9回裏、先頭打者として打席に立った長嶋さんは2-2のカウントから村山実さんのストレートをレフトポール際に叩き込んだ。絵に描いたようなサヨナラホームランだった。
この時、球場の時計は午後9時12分を指していた。天皇皇后両陛下が帰途につく、わずか3分前だった。もし、あのタイミングで長嶋さんのバットが火を噴かなかったら、天覧試合は画竜点睛を欠くものになっていた。
長嶋さんが巨人に入団する前、まだプロ野球は、東京六大学野球をはじめとする学生野球より、一段下に見られていた。プロ野球を「職業野球」と蔑(さげす)む風潮も残っていた。長嶋さんが両陛下に披露したサヨナラホームランにより、プロ野球は「菊の御紋」のお墨付きを得ることに成功したとも言える。
天覧試合の阪神戦でサヨナラ本塁打を放ち、川上哲治コーチ(右)に迎えられる巨人の長嶋茂雄選手(1959年6月25日、共同)
高度成長と共に歩んだジャイアンツ
天覧試合の価値と自らの活躍を、長嶋さんはこう総括している。
プロスポーツはそれまで高い評価はされなかった。入団のとき堅気の商売じゃないと言われたこともある。あのころは会社に勤めれば一応よほどのことが無い限り定年までやめなくてよい。そういう時代であった。プロ野球は裏返せば保証も何もない世界だ。
あの天覧試合でプロ野球そのものが隆盛に向かったことは言うまでもない。高度成長の中でスポーツ界の中心は、手前味噌になるけれど、やはりジャイアンツ。おこがましいが、学生時代からプロに行ってどういう選手になって、フィールドではどういう表現をするかということを決めていた。だから、そういう点では自分のシミュレーションというか、イマジネーションの世界でプロ野球に身を投じて、しかもジャイアンツという伝統があるチームでプレー出来たことは非常にラッキーだったといえる。
(自著『野球は人生そのものだ』日本経済新聞出版社)
全力プレーは戦後のニッポンを体現
時代は高度経済成長期。家庭の花形は、カラーテレビ、クーラー、カー(自動車)。この3Cと呼ばれる耐久消費財が日本の豊かさのシンボルとして輝きを放ち始めていた。
64年の東京五輪を境に、テレビはモノクロからカラーに移行し、淡いカクテル光線が映し出す球場の中心には、常に背番号「3」の姿があった。打っても守っても走っても常に全力プレー。グラウンド狭しと動き回る長嶋さんは、戦後ニッポンの「自由」と「平和」を誰よりも体現していた。太陽は太陽でも、長嶋さんは希望の朝を告げるライジングサンだった。
バナー写真:生前の長嶋茂雄さん(右)と筆者(2012年、宮崎市で=筆者提供)
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