東洲斎写楽:彗星(すいせい)のごとく現れ、消えていった謎の絵師
デフォルメされた役者絵が、一大センセーションを巻き起こした。絵師は無名の東洲斎写楽。インパクトのある似顔絵でありながら人間の内面を映し出した作品は、現代人をも魅了してやまない。
ピンチをチャンスに変えた蔦重
1794(寛政6)年5月、背景に黒い雲母の粉末を用いた豪華な大判役者絵28図が一挙に出版された。版元は蔦屋重三郎(蔦重)。絵師は無名の東洲斎写楽。それまでに雲母摺(きらずり)の役者絵はなかったので、絵柄の大胆さも手伝って一大センセーションを巻き起こしたのは想像に難くない。
吉原と並び日に千両が動くという江戸の芝居町。写楽が活躍した寛政年間は、江戸歌舞伎の華やかな時代だったと思われるかもしれないが、実は逆だった。老中・松平定信が行った寛政の改革に伴う経済の引き締めによって幕府公認の歌舞伎劇場「江戸三座」は行き詰まり、寛政6年になると臨時に興行権を得た劇場「控え櫓(やぐら)」で上演せざるを得なくなった。しかしピンチはチャンス。座元や芝居茶屋、興行の出資者は、新しい振興策を模索した。同年4月の吉原の大火で吉原ものの企画が滞ったこともあり、新規分野への参入を虎視眈々(たんたん)と狙っていた蔦重が勝負に出た結果が、大型新人・写楽のデビューというわけだ。
ところが、デビューからわずか10カ月で、写楽はこつ然と姿を消してしまった。1年足らずで140図以上の版画作品の出版は当時としては破格の扱いだ。それほどの画家ならば容易にその正体が分かるはずと考えがちだが、そうではない。身分制度の厳しかった江戸時代、浮世絵師は社会的には正式な画家として認められていなかった。庶民が手に取る浮世絵版画は「捨て画(すてえ)」と呼ばれ、その下絵を描く浮世絵師は「画工」として、幕府の御用絵師をはじめとした「絵師」とは区別されていた。錦絵を創始した鈴木春信や写楽と同時期に活躍した喜多川歌麿も、その生涯を伝えるものはほとんどない。江戸時代の人々にとって、画工の生涯はさほど興味あるものではなかったようだ。
前代未聞の肖像画
写楽の作品は単なる役者の似顔絵ではない。芝居で演じられた役者の姿であり、どの場面を描いたのかも分かる。写楽の役者絵は、芝居興行に合わせて形式と表現を変えていき、大きく4期に分けられる。
第1期は、寛政6年5月、控え櫓で行われた歌舞伎に取材した大判錦絵28図。全てが背景を黒雲母摺にした錦絵で、縦約37センチ、横約25センチの大判サイズの奉書紙に上半身のみを描いた「大首絵(おおくびえ)」である。このうちの5図は、1枚に2人の人物を描いた「二人大首絵」だ。
《三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよ》(左) 美人としてではなく、いかにも男性が演じているように描いている(東京国立博物館蔵 出典:ColBase)《市川鰕蔵の竹村定之進》 当代随一の役者の重厚な演技がしのばれる(東京国立博物館蔵 出典:ColBase)
大首絵は役者のブロマイドのようなもので、芝居の場面設定に忠実であるよりも、贔屓(ひいき)が喜ぶように描くのが定番だった。ところが写楽は贔屓に忖度(そんたく)せず、演者の特徴をデフォルメして描いた。
例えば「江戸兵衛と奴一平」「松下造酒之進と志賀大七」など、それぞれの鍵になる襲撃シーンを対にして描いた。
《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》(左)と《初代市川男女蔵(おめぞう)の奴一平》 金を奪おうと一平を襲う江戸兵衛。公演前に鬼次はこのポーズを披露したのだろう。他の絵師も同じ姿を描いている(東京国立博物館蔵 出典:ColBase)
《初代尾上松助の松下造酒之進(みきのしん)》(左、東京国立博物館蔵 出典:ColBase)と 《三代目市川高麗蔵(こまぞう)の志賀大七》 零落して貧困と病苦に苦しむ造酒之進。不敵な笑み浮かべる大七(シカゴ美術館蔵)
手のしぐさや身のこなし、刀を握る手、広げた指などで芝居の中での動きや役柄の特徴を巧みに表現している。背景の黒雲母摺りも、役者の姿を浮かび上がらせるのに効果的だ。
失われていく強烈な個性
寛政6年7、8月に出された第2期は全てが全身像。役者絵の伝統的な形式である縦約33センチ、横約15センチの細判の浮世絵では、複数の図を組み合わせた続きものとして無背景で描かれている。動きをはらんだ描写やポーズを曲線的に表現する写楽の特徴がよく現れている。
この時期の大判作品は雲母摺で、2人を弧を描くように組み合わせたり、対角線の片側に寄せて描いたりするなど、円や三角形を意識した視覚的な効果を重視した構図となっている。第1期の重厚な作風とは打って変わって、白や黄色の背景に合うように衣装の色彩が華やかになり、細かな模様も描き視覚効果を重視している。蔦重が、廉価な細判を主として購買層の拡大を目指したのではないだろうか。
《篠塚浦右衛門の都座口上図》 似顔絵の2番目シリーズを出版すると書かれた口上が読み上げられている。蔦重の出版宣言だ(東京国立博物館蔵 出典:ColBase)
《三代目大谷鬼次の川島治部五郎》(左) と《三代目沢村宗十郎の名護屋山三元春と三代目瀬川菊之丞の傾城(けいせい)かつらぎ》(東京国立博物館蔵 出典:ColBase)
第3期は、寛政6年11月の顔見世興行を描いた作品である。他期に比べ多くの図が制作され、58図が確認されている。しかし現存枚数は少なく、1枚しか確認されていない図が多くあることから、商業的には成功しなかったようだ。特徴である明快さが失われ、写楽の個性は薄れている。役者の屋号と俳諧の場で使う「俳名(はいみょう)」が記されているので、人気役者のブロマイドとして制作されたようだ。第1期の作品が、それぞれの役柄が持つドラマ性を感じさせる深奥な描写がなされているのに対し、希薄な描写にとどまり、平板で形式化した表現に変わっている。
《堺屋秀鶴》(左) と《三代目沢村宗十郎の孔雀三郎なり平》 第3期の中では珍しい凝縮した表現の図(東京国立博物館蔵 出典:ColBase)
第4期は、役者絵としては、寛政7年の新春狂言に取材した細判10図のみが現存している。第3期作品の多くが背景を印象的に描き添えた程度のものであったのに対し、第4期では描かれているのが舞台上の芝居であることを意識させるように描かれ、衣装や人物の線は単調なものに変化している。
初日公演に合わせての出版なので、描いたのは寛政6年暮れのこととなる。デビューから1年も経たないうちに姿を消した写楽。その変貌ぶりはあまりにも激しく、デビュー当時の強烈な個性は見る影もない。10図だけが現存する芝居絵は、未完としての唐突さを感じさせ、商業出版として頓挫したことを示している。第3期以降の画風変化は、代筆がなされたのではないかと思わせてしまう。
左より《二代目坂東三津五郎の曾我の五郎時致(ときむね)》《三代目沢村宗十郎の曾我の十郎祐成(すけなり)》《三代目坂東彦三郎の工藤左衛門祐経(すけつね)》 正月恒例の「曾我もの」が3枚続きの形式で描かれている(東京国立博物館蔵 出典:ColBase)
《大童山文五郎 碁盤上げ》 当時人気の巨漢子供力士を描いた図。役者ではなく力士のブロマイド(東京国立博物館蔵 出典:ColBase)
受け手によって揺れ動く評価
これまた歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止ム。
(写楽もまた歌舞伎役者の似顔を描いたが、あまりにもリアルに描こうとして、ひどく描いたために世間に広まらず、1、2年で終わってしまった)
1798(寛政10)年頃に大田南畝が著した浮世絵師の伝記『浮世絵類考』の中の写楽評である。写楽の作品はデビュー時のものがよく残っており、かなりの数が摺られたと考えられるが、次第に減っていった。蔦重が商業的に大きな勝負に出たが、人気を得ることができず、スポンサーにも見放され失敗に終わったということだろう。贔屓の役者を追った当時の人々にしたら、写楽の絵は彼らが望んだようなイメージから逸脱していた。写楽が短期間で姿を消すのは仕方ないことであった。
1910(明治43)年、ドイツで、美術史研究者で日本愛好家であったユリウス・クルトによって写楽の研究書『SHARAKU』が刊行された。すでにフランスの美術評論家エドモン・ド・ゴンクールが1891年に『歌麿』、1896年に『北斎』を出版して、浮世絵愛好熱が高まっていた時期である。当時の歌舞伎を知らないクルトや西欧の人々は贔屓役者の舞台姿としてではなく、インパクトのある似顔絵でありながら人間の内面を映し出した作品として写楽の絵と向き合ったのだろう。それは現代人も全く同じである。
写楽の正体に関しては、大田南畝の原本に山東京伝や式亭三馬らが追記・加筆した『増補浮世絵類考』や江戸著名人録である『江戸方角分(ほうがくわけ)』など江戸時代の資料や菩提寺(ぼだいじ)の過去帳などから、阿波徳島藩・蜂須賀家お抱えの能楽師、斎藤十郎兵衛(1763~1820)であるとする説にほぼ落ち着いている。
バナー画像:写楽作品を基に作成(東京国立博物館蔵 出典:ColBase)
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