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新大久保(JY16) : 「窪んだ地」に由来する多国籍タウンの最寄り駅

JRでは「新」の字を持つ最も古い駅1912(明治45)年7月30日、明治天皇が崩御し、皇太子・嘉仁(よしひと)親王が即位した。元号は「大正」に改まった。その2年後の1914(大正3)年11月15日に開業した新大久保駅は、大正期に誕生した初の山手線の駅だった(鶯谷駅は1912年7月11日で改元前)。新宿-高田馬場間に設置された高架式の駅で、新宿までは1.3キロメートル、高田馬場までは1.4キロメート...

1909(明治42)年に山手線と命名されて以来、「首都の大動脈」として東京の発展を支えてきた鉄道路線には、現在30の駅がある。それぞれの駅名の由来をたどると、知られざる歴史の宝庫だった。第27回は韓国をはじめとして多国籍料理店などでにぎわう新大久保の秘密を紹介する。タイトルの(JY16)はJR東日本の駅ナンバー。

JRでは「新」の字を持つ最も古い駅

1912(明治45)年7月30日、明治天皇が崩御し、皇太子・嘉仁(よしひと)親王が即位した。元号は「大正」に改まった。

その2年後の1914(大正3)年11月15日に開業した新大久保駅は、大正期に誕生した初の山手線の駅だった(鶯谷駅は1912年7月11日で改元前)。

新宿-高田馬場間に設置された高架式の駅で、新宿までは1.3キロメートル、高田馬場までは1.4キロメートル。所在地は豊島郡大久保百人町字仲通だった。

300メートルほど西に1895(明治28)年開業の甲武鉄道(中央本線)「大久保」駅があったため、「新」を足して駅名とした。時刻表探検家の渡辺雅史によると、「新」の付いた駅は東武鉄道の「新伊勢崎駅」(群馬県)が1910(明治43)年3月開業で最も古く、JRでは新大久保が最古だという。

1965年頃の新大久保駅前商店街から高架を望む(『商業の街・新宿』国立国会図書館所蔵)
1965年頃の新大久保駅前商店街から高架を望む(『商業の街・新宿』国立国会図書館所蔵)

2000年代初頭から『冬のソナタ』などの韓流ドラマブームにのって韓国料理店などが相次いで出店し観光地化、都内最大のコリアタウンの最寄り駅としてにぎわうようになった。その後、K-POPブームや韓流ドラマブームの再来で、韓国コスメやアイドルグッズの店に若い女性が押し寄せた。近年は、韓国以外のアジア圏のショップも増え、国際色豊かな街となっている。

「久保」とは「窪」すなわち凹んだ地

大久保の地名の由来には4つの説があり、いずれも『豊多摩郡誌』に載っている。

  • 16世紀に関東を支配していた後北条氏の家臣・太田新六郎の配下にいた「大久保」姓の者がこの地を領していた
  • 窪地にあったため「窪」が「久保」に転じた
  • 曹洞宗の寺院・永福寺(新宿区新宿7丁目に現存)の旧山号が「大窪山」だった
  • 江戸時代、幕府がこの地に居住させていた同心の総取締が「大久保」姓だった

有力視されているのは「窪地」説である。そもそも地名は、例外はあるものの地形に由来していると考えるのが自然だ。

山手線最高地点は新宿-新大久保間の淀橋跨線橋(新宿区歌舞伎町1丁目)の辺りで標高は41.1メートル、新大久保駅は標高30メートルなので一気に11メートル下ってくる。

また、農研機構が公開している明治初期の地図「西大久保村」「東大久保村」の境、現在の明治通りの東側(新宿7丁目)には大きな窪地がある。『新編武蔵風土記稿』によると大久保に東西の2つの村が成立したのは天正〜元禄(1573〜1688)で、かつてはかなり広い範囲を「大久保」と呼び、東・西の村も明治まで存続していた(現在は消滅)。

農研機構『歴史的農業環境閲覧システム』で見る明治初期の東・西大久保村。★が現在の新大久保駅。赤線で囲った西大久保村・東大久保村の境にある細長い窪地を赤色の透かしで示した
農研機構『歴史的農業環境閲覧システム』で見る明治初期の東・西大久保村。★が現在の新大久保駅。赤線で囲った西大久保村・東大久保村の境にある細長い窪地を赤色の透かしで示した

それが、新大久保駅は窪地から約1キロメートル西、西大久保村の外れに建設された。新宿より11メートル下った窪地にはあるのだが、電車に乗っていると、このことに気づかない。しかも「大きな窪地」は1キロメートルも離れているため、「窪んだ地」と体感しづらいのだ。

百人町は鉄砲足軽たちが集住した地

現在の新大久保駅は新宿区百人町1丁目。百人町1〜4丁目までの総面積は約0.76平方キロメートル。百人町の名は「鉄砲百人組」に由来する。

鉄砲百人組とは1590(天正18)年、徳川家康が江戸に入府し譜代家臣の内藤清成に四谷の地を与えた際、清成預かりの下で江戸の西を守る役目を担った足軽たちである。清成の屋敷跡地は現在の新宿御苑だ。

清成の配下は「伊賀組」または「二十五騎組」と称し、与力25騎、足軽100人で編成され、「百人組」と呼ばれた。その後(1602 / 慶長7年頃とされるが正確には不明)、この者たちが集団で居住する屋敷が大久保に与えられ、「百人組屋敷」ができる。

1634(寛永11)年、百人組の頭(かしら)に久世三四郎が就くと、新田を開墾し道を設け、道に沿って南町・仲町・北町の区画を整備した(新宿歴史博物館 常設展示解説)。この一帯が現在の百人町1〜3丁目にあたる。

皆中稲荷(かいちゅういなり)神社は「皆中」を「みなあたる」と読み、百人組の鉄砲隊の信仰を集めた。今では、「レアチケットに当たる!」と若者が願掛けに訪れる(PIXTA)
皆中稲荷(かいちゅういなり)神社は「皆中」を「みなあたる」と読み、百人組の鉄砲隊の信仰を集めた。今では、「レアチケットに当たる!」と若者が願掛けに訪れる(PIXTA)

とはいえ、ここまでは江戸時代初期の話である。平和な世が訪れると、百人組は江戸城大手門を警護する番所に詰め、 将軍が日光や増上寺・寛永寺に参詣する際の警護や、鹿狩を補佐する業務に就いた。将軍・幕府直属の武士ではあったものの、身分は御家人で暮らしは楽ではなかった。

そこで百人組屋敷の裏の畑でツツジ栽培に精を出した。御徒町の御徒衆が生計の助けに始めた朝顔の栽培が入谷の朝顔市の起源になったことは知られているが、大久保もツツジの名所として名をはせた。

百人組が栽培したツツジは「大久保の映山紅(えいさんこう/赤紫色のツツジ)」として庶民に親しまれた(『江戸名所図会』国立国会図書館所蔵)
百人組が栽培したツツジは「大久保の映山紅(えいさんこう/赤紫色のツツジ)」として庶民に親しまれた(『江戸名所図会』国立国会図書館所蔵)

「生類憐れみの令」と小泉八雲の名残

大久保には一風変わった施設もあった。5代将軍・徳川綱吉が「生類憐れみの令」を発すると、中野・四谷・大久保などに野良犬を収容する「犬御用屋敷」(単に「犬小屋」ともいう)が設置された。大久保の御用屋敷は東大久保村の外れ、都営地下鉄大江戸線・若松河田駅にほど近い場所にあった。

将軍が6代・家宣に代わると「生類憐れみの令」は廃止された。御用屋敷も撤去となり、大久保の跡地は再び農地となった。現在は犬小屋があったことを残す案内板が立っている。

中野の『犬御用屋敷』の簡易図面。大久保の犬小屋の規模はこれよりも小さかったという(『武蔵野歴史地理第2冊』国立国会図書館所蔵)
中野の『犬御用屋敷』の簡易図面。大久保の犬小屋の規模はこれよりも小さかったという(『武蔵野歴史地理第2冊』国立国会図書館所蔵)

一方、新大久保駅から大久保通りを東へ約600メートル行き右折すると、「小泉八雲記念公園」がある。

八雲の本名はラフカディオ・ハーン。1890(明治23)年に来日したギリシャ生まれの英国人で、島根県松江で英語教師を務めた。日本人女性と結婚し日本国籍を取得すると小泉八雲を名乗り、『耳なし芳一』『雪女』といった怪談を翻訳して世界に広めた。

小泉八雲記念公園の近くにある「小泉八雲終焉の地」の石碑(PIXTA)
小泉八雲記念公園の近くにある「小泉八雲終焉の地」の石碑(PIXTA)

熊本や神戸に移り住んだのちに東京に居を定め、1904(明治37)年に没した。終焉(しゅうえん)の地が大久保だった。

1989(平成元)年、八雲の出身地、ギリシャのレフカダ島と新宿区が姉妹都市となったのを記念して、大久保に公園が開園した。ギリシャ風の白い石柱や八雲の胸像、生涯を紹介する碑に彩られ、日本を愛した男の軌跡を伝え、公園の近くにある「小泉八雲終焉の地」は新宿区の指定史跡となっている。

【新大久保駅データ】

  • 開業 / 1914(大正3)年11月15日
  • 1日の平均乗車人員 / 4万6726人(30駅中第25位 / 2023年度・JR東日本調べ)
  • 乗り入れている路線 / なし

【参考図書】

  • 『豊多摩郡誌』東京府豊多摩郡編 / 名著出版
  • 新宿歴史博物館常設展示解説シート
  • 『東京の地名由来辞典』竹内誠編 / 東京堂出版
  • 『駅名学入門』今尾恵介 / 中公新書ラクレ
  • 『地形を感じる!駅名の秘密 東京周辺』内田宗治 / 実業之日本社
  • 『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎 / 潮出版社

バナー写真:昭和40年代の新大久保駅(『写真で見る国鉄駅舎のすべて』国立国会図書館所蔵)

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